ジャクソン・ブラウンによるデビッド・リンドレー追悼文

FaceobookにJackson BrowneがDavid Lindleyへの追悼文を寄せていた。

僕の多くの曲に個性とインスピレーションを与えてくれたギタリスト、ラップスチール、フィドル奏者のデビッド・リンドレーが、3月3日に亡くなった。 彼の才能が広く知られるようになり、多くの敬愛が寄せられ、とても感動している。 僕は、彼の才能に対する感謝の大合唱に加わりたいのだが、何を書いてもうまくいかないようだ。 デヴィッド・リンドレーが曲にもたらしたものを表現するには、言葉だけでは不十分だ。

1969年、トルバドールの楽屋で初めてデヴィッドと共演した。 友人のニッティ・グリッティ・ダート・バンドのジミー・ファッデンが挨拶に彼を連れてきていて、デヴィッドがフィドルを持っていることを教えてくれた。 そして、僕が頼んだら彼はきっと演奏してくれるだろうと言った。 僕はすでに彼をカレイドスコープというバンドで知っていて、そのファーストアルバム”Side Trips”は僕のお気に入りのレコードの一つだった。

僕の曲”These Days”を演奏し始めたとき、僕の世界は一変した。 彼の演奏はとてもエモーショナルで、直接的で、僕やその場にいたすべての人に魔法をかけた。 彼がこの曲を聴いたことがないことは問題ではなかった。 彼の演奏によって、僕が一人で演奏してきたときよりも、よりエモーショナルで、よりリアルなものになった。

僕がファーストアルバムを作ったとき、デイヴィッドはイギリスでテリー・リードと一緒に演奏していた。 彼が帰ってきてから、彼と一緒にツアーバンドを組んでみたんだけど、2人でやるのと同じようにはいかなかったんだ。 そこで、ドラム・ベース・コンガがないとまともに演奏できないシングルがチャートインしていたにもかかわらず、デュオでツアーすることにした。 でも、その曲は演奏しなかった。 それまで僕が作った曲や、二人で知っている昔の曲、友達が作った曲などをたくさん演奏した。 やがて彼とバンドを組むようになり、豊かで多彩な音楽の環境になった。 ボニー・レイットとの全国ツアーの共同ヘッドライナーを務めた。 それが僕の3枚目のアルバム”Late For The Sky”に収録されているバンドだ。

デイビッドは、僕の中でとても大きな部分を占めている。-僕がどんな人になり、そして僕が誰であるか。 彼のような演奏は誰もしたことがない。 エル・ラヨ-Xを結成してデヴィッドが去って後の僕のバンドでは、曲の構成は多かれ少なかれ彼の演奏したものをベースに演奏していた。 でもリンドリー的なものを再現するのはプレイヤー次第だし、それは今も同様だ。 その意気だ!それをを目指すのはとてもいいことだ。 彼はいつも同じ演奏をしたわけではない。 彼は新しいなにかを常に探し、常に聞いていた。常にその瞬間にいた。

デイビッドの音楽的興味は非常に幅広く、その天才ぶりは明らかだ。 彼は現代の偉大なアーティストたちを魅了し、一緒に演奏した。 ライ・クーダー、リンダ・ロンシュタット、グラハム・ナッシュとデヴィッド・クロスビー、ウォーレン・ゼヴォン、ボニー・レイト、ジェームス・テイラー、ブルース・スプリングスティーンなどだ。 しかし、彼が影響を受けたものを自由に発展させ、混ぜ合わせることができる豊かで肥沃な環境となり、現在そして永遠にデヴィッド・リンドレーとして知られることになる独自の合成物を作り出したのは彼のバンド、エル・ラヨ-Xだった。

ヘンリー・カイザーと共に、デヴィッドは”カレイドスコープ”で始めたワールドミュージックの探求を続けた。 ヘンリーが「デヴィッド・リンドリーのためのレクイエム」を投稿してくれたことに感謝している。 また、インターネット上には、デヴィッドがさまざまな文化を操り、ひとつの世界に織り込んでいったことを証明する投稿やクリップがたくさんある。

デイヴィッドの死によって、僕自身の世界は打ち砕かれてしまった。 彼は僕の友人であり、僕の先生だった。 今、長年にわたる僕たちの特別なつながりを再確認できたのは、大きな喜びと確信になった。 彼はいつもそばにいると僕自身が考えていたのだと思う。

この2週間、何か書いて投稿すれば良いのか足掻いていた。 書き始めるのも難しいし、結論も難しい。それは僕が彼を失いたくないからだと思う。 デイビッドは誰にでも親切で、とても可笑しな人だった。 不誠実な言葉を発することも、不誠実な音を奏でることもなかった。 きっとトリビュート・コンサートがあって、彼のドキュメンタリーは必ず作られるだろう。 彼の人生を祝福し続ける方法があると思う。 そして、もう二度とDavid Lindleyは現れないということを、僕たちは思い知るのだ。

– ジャクソン・ブラウン