はじめに
ギタリスト身体論 ー達人に学ぶ脱力奏法ーで知られる筆者が考えるジャズギターがつまらない理由について書いた文章を読みました。少し前は読み放題で読めたのですが、今は出来ないようです。元ネタのブログはまだ読めるようです。
読んでいて、ふーんというところもゼロではなかったのですが、一方でとてもモヤモヤしました。 この手の話が無粋であるのは重々承知のうえで整理してみました。
目次
「つまらない理由」の整理
いくつか「つまらない理由」が挙がっています。便宜上番号を振ります:
- 情熱がイマイチ伝わらない ~ジャズギタリストの初期衝動について
- ジャズギターはあらゆる局面で中途半端になりがち
- 他ジャンルのギターに対しての無意識の優越感
- サウンドの魅力が分かり辛い
- 内輪ノリが過ぎる
- なんでもできるという幻想
- 実はギターではスゥイングし辛い
- ギターデュオという、ギタリスト以外誰も興味ないフォーマット
- ジャズはパフォーマンスを免除されているという勘違い
- 他楽器への対抗意識から生まれる取って付けたような演奏
- 衣装がダサい
- 難解であることがアイデンティティとなっている
- ジャズ史に残るギタリストが最初期に一人しか出ていない
- BLUESを忘れたから
- ジャズギターという泥沼
まあ、言っている意味そのものがモヤモヤする部分はありますが、気持ちも整理して今年を終えようかな、と。
モヤモヤの整理
モヤモヤ1 誰に向けているのか
まず、誰に向けているのかモヤモヤします。想像するに
- (プロ・アマの)ジャズ・ギタリスト、これからジャズギターを始める人
- ジャズギター・ファン(リスナー)
- ジャズファン(リスナー)
といったところでしょう。
内容を読んでから邪推すると、本当に向けているのは、決別したいジャズギター界の特定の方々なのかな。邪推ですよ。
その辺りをぼかして書いているのがモヤモヤの原因かなと感じました。
モヤモヤ2 具体的に誰を批判しているのか
上の③、⑤、⑥、⑨、⑩、⑪、⑫、⑭は具体的に誰のどのような言動を言っているのか、さっぱり分かりません。 なので、何を批判しているのかモヤモヤします。
何を批判しているのか分からないと、「disり」と解釈されやすい危険性はありますね。
モヤモヤ3 自分でやればいいのに、なぜ
無責任な読者としては、上の④、⑤、⑦、⑧、⑨、⑩、⑪、⑫、⑭は自分で手本を示せば良いのに、と思います。
楽器を演奏しない人が批判する分には、まあ批判するだけでも良いような気はします。 でも楽器を演奏する人が他の演奏家を批判するとブーメランになる部分は多分にあるわけですよ。
「だからジャズキタ—は弾かない」っていうのが主張なのかも知れませんが、これで免責されるのですかね。
自分でやるべきこと、やるべきではないこと、として実践すれば良いだけのような気はします。 自分だけ安全地帯にいて、言いたいことを言うのはモヤモヤが減りません。
モヤモヤ4 根拠が分からない: 批判とdisりの境界はどこ?
①、⑬は批判なのかモヤモヤします:
①:ジャズにハマって、あるいは育ってギターを始めていないから「つまらない」?
「後付けだからダメ」なのか、それとも他のことを主張しているのかモヤモヤします。 「ジャズ」ってそんなにかっちり決まりきったジャンルだったとは、ぼくは自分の勉強不足に恥じ入るべきかも知れません。
ギターを弾いて音楽性が広がること自体は良いことだし、コンテンポラリー系のギタリストは自分のルーツを個性にしている部分は多くあると思っています。
でも、そんなのじゃダメっていう主張でしょうか。
⑬:ギター界のジャズ・ジャイアンツがチャーリー・クリスチャンしかいないから「つまらない」?
チャーリー・クリスチャンを例に出されると、比較対象としてはマイルスくらいなのでは。 かたやビバップの開祖、かたやビバップに飽き足らずモードジャズ、電化ジャズまで探求した開拓者。あとはオーネットコールマンくらいかな。
他の楽器でジャズ・ジャイアンツが複数いるなら例を出して欲しいです。これもぼくの勉強不足なのかー。
フレーズのお手本という意味だと、サックスはチャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンという二人がいますね。そういう意味なのかも、ですね。
⑭の「BLUESを忘れたから」のと①のジャズ・ネイティブなギタリストがいない批判は、これらの関係がよく分かりませんね。 著者の中では矛盾がないようですが、ぼくにはそこまで読み取れないな。
モヤモヤ5 結局、何が言いたいの?
最後に『「つまならない」からジャズギターに別れを告げる』と解釈できることが書いてあります。
やることをやり尽くして、もうやることが無い、と言うならばとても説得力があるのですが…。 そういう感じには受け取れないですね。
自分がそこまで求道的になれなかったのはなぜかを掘り下げるほうが教訓的でしょう。 喩えて言うなら、好きな女の子を振り向かせることが出来ないうちに熱が冷めてしまい、「そんなにたいした女じゃなかった」的な言い訳をしている風に思ってしまいました。
ぼくなら「自分の限界を感じた」「限界を感じた時点で自分の中のジャズギターへの情熱を維持できない」くらいの方が分かりやすいし、共感はできます。 実際、ぼくはそうですし。
この方もジャズギターを始める時の動機があったはず。それが何なのか、そしてその動機がどうなったのかが知りたいものです。 そうすると共感も増えるかも、です。
まとめ
編集者って大事
話は逸れますが、このように内容の質に疑問符がつくアウトプットを出してしまうと、他のアウトプットの質にも疑念を持ってしまうのが人情です。 ブログの書籍化とは言え、お金を取る感覚の相違でしょうか。
実際、Kindle本は自分で完結して出版できるので、玉石混交です。 ブログをまとめてお手軽に出版できても、狙い通りの効果が得られない一例としてはとても興味深いものがあります。
どうも自分の感情をベースにロジックを組み立てているように見えて、説得力や共感を呼ぶには至っていない、という感想を持ちました。
この著者はたまに良いことを発信する時もあるので、とてももったいない。
第三者的な編集者がいれば、このようなことはかなり避けられたでしょうに。
ギター・ジャズだっていいじゃない
ぼくがジャズギターに憧れた30年くらい前でさえ、「ジャズギターは四畳半的」という批判・自虐はありました(ソースは忘れましたが…)。 こじんまりしている(ダイナミクスに欠ける?)、くらいの意味でしょう。
でも、ホーン系の大ブロー大会こそジャズかと言うと、そうでもないでしょう。ギンギン・ギラギラばかりでは、さすがに疲れてしまいますし。
ジャズってもっと自由な音楽で良いのでは。だから、ギターで弾くジャズはそれはそれで良いんじゃないの、と思ってしまいます。 あー、ギターデュオはぼくも好きじゃないけど。
何をつまらないと思うかは個人の自由だし、どう表現するかも個人の自由です。 でも、嫌いを語るよりは愛を語る方が共感は得られやすいなーと思いました。