清水俊史 / ブッダという男 ―― 初期仏典を読みとく

後書きにあるアカハラの件のほうが有名になってしまった本らしい。

雑にまとめると、初期仏教の経典をベースにブッダの真の姿を読み解こうという内容といったところか。

自分はスリランカやミャンマーのお坊様の本などで初期仏教を学んだので、この手の本にはかなり辛口になってしまう。 ブッダを矮小化する印象を与えるタイトルからして、あまり好意的には読めない。

まず、この本は「日本における」初期仏教研究「など」に対する検証である。 この本で検証しているアイテムが、どのくらい共通認識なのか自分には分からないが、検証ポイントのレベルがかなり低い(ずれている)と感じてしまう。 日本の仏教学者たちは、これらを本当に「研究」してきたのか。

検証しているのが次のポイントになっている:

  • ブッダは平和主義者だったのか
  • ブッダは業と輪廻を否定したのか
  • ブッダは階級差別を否定したのか
  • ブッダは男女平等を主張したのか

「平和主義者」というのは定義に困るが、これは学術的に扱うことなのだろうか。

「業と輪廻を否定したのか」は笑うところなのだろうか。そういう主張があるというのが驚きだった。

階級差別や男女平等は、2000年以上昔の状況を現代的な感覚で語るセンスの悪さを感じる。 そういったかなり筋の悪い主張を、逐一検証しないといけないのが日本のブッダ研究なのだろうか。

そして、こうした思い込み中心で述べられている論に対して仏典を参照して検証するのは普通のやり方のように思えるのだが、いままでそうしてこなかったのか。 この点で日本の仏教研究はどうにもレベルが低いように思えた。(なぜ、この本が出版で揉めたのかは、さっぱり理解できない。)

そもそもブッダの教えという意味での仏教は、誰でも幸せになる道(=解脱)を示しているもので、「信じれば救われる」という教えではない。 言い換えると、他力ではなく、幸せになるなら自分で努力する必要があるし、良い師匠も必要という教えである。 日本でのいわゆる仏教は信じて救ってもらうという面を強く感じるので、その点では実のところ全く異なる教えと理解するほうが自然だ。

さらに言うなら、解脱するために必要のないことは関知しない、という立場でもある。 だから、上記のような「平和主義」「男女平等」とかいう世俗的な価値観で教えを語っていない。 そういう理解から上のような検証ポイントを見ると、初期仏教を真面目に勉強したことがない人が勝手なことを言っている戯言に見えて、時間や紙面を使って議論する価値も感じない。自分が上で「レベルが低い」と書いたのは、こういう意味だ。

引用されている文献も日本の「学者」のものばかりだが、仏教の研究は日本だけなのだろうか。 日本の研究が世界で通用するという自負はあっても良いと思うが、引用されている日本の学者のご説は、各々の「こうあって欲しいブッダ像」を捏ね回しているだけに思えた(この本でも、そう評している箇所がある)。 たぶん、上記の検証ポイントのような観点で仏教を研究しているのは、世界でも日本の狭い学会だけなのではないかと思う。

中村元など翻訳は多いが、注釈などからの印象は仏教を理解しないで貶める傾向を感じる。(←個人の感想です。)

文中では手塚治虫の「ブッダ」も引用されているが、あれを引用するのは蛇足だと思う。 あの作品は手塚治虫が考えるブッダであって、マンガの価値は置いておいても、仏教的な内容は非常に薄っぺらい。

薄っぺらいのは上記の検証ポイントがまさにそうで、左翼運動家の主張から持ってきたような文言が並ぶ。 そんな矮小化したブッダ像を日本の学者様はお持ちということなのだろうか。しかもアカハラまでやってのける。 仏教を研究していながら、悪行の報いを受けるとは思わないのだろうか。何を学んでいるというのか。

後半の無我、縁起に関する論は、まあまあだと思うが、新しいことは言っていないと思う。 このあたりは上座部仏教のお坊様が書いた(法話なども含めて)書籍のほうが良い。

今年の正月は、仏教の勉強になるかと読んだ本に、御寒い日本のブッダ研究の状況をこれでもかと見せつけられた思いがする。 この先も世俗的な見地から脱しないまま論じ続けても、見当違いな議論にしかならないことは容易に想像できる。 大乗仏教の影響が強い文化が邪魔をするのだろうか。

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