リッチー・ブラックモアとジョン・ボーナム

リッチー・ブラックモアが語るジョン・ボーナムを紹介した後で、リッチーとボンゾがかなり仲が良かったという解説が見付かりました。ただ、このchannelの主である”Kar”って誰なのか分かっていません。

興味深いエピソードが多いと思いました。当時のロック・シーンは意外と狭い印象です。

Nottaで文字起こしした後でDeepLを使いながら翻訳してみました。 聞きとれない部分もあるし、聞きとれても意味が良く分からない部分もあります。

解説動画はこれです。

リッチー・ブラックモアとジョン・ボーナムはとても仲が良かった。  彼らは飲み仲間で、ロサンゼルスのロック・クラブによく出入りしていた。  2人がアメリカにいるときはいつでも、酒飲み談義に花を咲かせていた。 1960年代初頭には、リッチーとボーナムがスクリーミング・ロードのレコードで一緒に仕事をしたり、ジミー・ペイジも一緒に仕事をしたりしていたよ。 

ジョン・ボーナムは実際に1958年に10歳だったときにドラムを演奏し始めた。  レッド・ツェッペリン以前は、ボーナムはファミリー・ドッグ、スクリーミング・ロード・サッチ、ルル、ジミー・スティーブンス、ウィングスなど、他のアーティストでドラムを演奏していた。  レッド・ツェッペリンとディープ・パープルの両バンドが結成された1968年までに、ミュージシャンたちはお互いをよく知るようになった。  ジョン・ボーナムはパープルのメンバー全員といい関係だったが、たいていはリッチー・ブラックモアとつるんでいた。 

あの二人の間に秘密はない。 

1970年に一度、彼らが酒を飲んでいるときに、リッチーがボーナムに言ったんだ、「いいか、俺はオーケストラと一緒にアルバムを作りたくない。 俺はハードロックのアルバムを作りたいんだ」と。  その後、ブラックモアは1970年にオーケストラを使った別のアルバム『Gemini Suite』には後ろ向きで、それは時期が来ても発売されず、約25年間棚に眠っていた。  そこで、両方のコンチェルトの作者であるジョン・ロードは、オーケストラとのコンサートではなく、自分で録音してソロアルバムとしてリリースすることになった。  ディープ・パープルはその後、1975年にかなりまともなハード・ロック・アルバム『Fireball』というロックなアルバムを発表している。  ブラックモアは、「グループとオーケストラのための協奏曲は悪くないと思ったが、Gemini Suiteはひどかったし、非常に支離滅裂だった」と述べている。 

リッチーは、仲間のミュージシャンに対して生意気なコメントをすることで評判になった。  リッチーはボンゾのドラミングについて何か言って、レッド・ツェッペリンの悪口を言ったらしいんだ。 だから当然、ジョン・ボーナムはすごく怒ったんだ。 彼はブラックモアをスタジオから追い出して、彼らをボコボコにしたと言われている。  ジョン・ボーナムはたくさんの人を殴っているから、その可能性は高いよ。ロバート・プラントや、スティングだって、ボーナムが息子をポリスに会わせた後、スティングが息子のジェイソンを無視したことで有名だしね。  リッチーによると、ボーナムは対決が好きで、リッチーはいつも対決をさせていたそうだ。 

ジョン・ボーナムは、リッチーにディープ・パープルを辞めてソロ・プロジェクトを始めるように勧めたんだ。 リッチーは、ロサンゼルスのレインボー・バー&グリル (RAINBOW bar & grill)にちなんでレインボーと呼び、そこで両者はよく酒盛りをしたものだ。  そこは素晴らしいクラブだった。 ハリウッドのサンセット大通りにあるんだ。  何度も行ったよ。  そこでよく遊んでいたのが、ジョン・アントワーという男だった。  彼は冗談が好きで、とても楽しい人だった。 

とにかく、リッチーはエルフのシンガー兼ベーシストだったロニー・ジェームス・ディオに会ったんだ。  そして、実はエルフのセルフ・タイトルのデビュー・アルバムは、1972年にたまたまエルフのオーディションを見たディープ・パープルのメンバー、ロジャー・グローヴァーとイアン・ペイスがプロデュースしたものだったんだ。  その後数年間、バンドはディープ・パープルのオープニング・アクトとしてちょっとした成功を収めた。 

ディオの声はディープ・パープルのギタリストの注目を浴びることになる。  リッチー・ブラックモアは、ディープ・パープルというものに飽き始め、ソロ・アルバムを録音するためのミュージシャンを探していた。  彼は1975年初め、このアルバムにエルフのミュージシャンを起用することを決め、すぐにレインボーというバンドが結成された。 

1975年、ボーナムはリッチーに、「『フィジカル・グラフィティ』のようなものをやりたいのなら、まずキラー・ドラマーに注目するべきだ」と説得した。  彼は言う、「イアン・ペイスは良いが、彼はロックンロール・プレイヤーであって、メタル・ヘッドではない。  だから、俺みたいなのが必要なんだ。 そうでなければ、オーケストラと一緒にクソみたいなロックンロールのレコードを録音し続けることになる」。  ボーナムはカリフォルニア州マリブのブラックモアの近くに住んでおり、ある晴れ舞台でレインボーのリハーサルをよく訪れていた。  元エルフのドラマー、ゲイリー・ドリスコルがいかに常に物足りなくてハードなペースを保つことができないことに聞き飽きたのだ。  彼はリチャード・ブラックモア・コージー・パウエルの電話番号を教えた。 ボーナムは1968年69年の頃からコージーと親交があって、コージーはボーナムの大ファンだった。 

こうしてコージー・パウエルはリッチーのドラマーになったわけだ。 そしてコージー・パウエルはこう振り返る。  「面白いことに、ボーナムが最初の2つの州から帰ってきたとき、彼は俺に、今見たばかりのカーマイン・アピスはすごいぞと言ったんだ。  でも、俺は言うよ。 俺は彼よりも大きな音で演奏できるんだ」。

さて、ここで本当に面白い話があるんだけど、みんな、かつてリッチーはロサンゼルスでハウスパーティーをやったことがあるんだ。  それは1975年、レインボーのファーストアルバムがリリースされたときのことらしい。 

リッチーの友達はたくさんいる。 ロックスター、美女たち。 リッチーはお気に入りのバッハのレコードをターンテーブルでかけていた。  すると招待されていないのにジョン・ボーナムがパーティに現れ、彼の得意とする大混乱を引き起こし始めたんだ。  それからボーナムは音楽を変えようと思って、リッチーに言ったんだ、「なんでこんなくだらないものをかけるんだ?  彼は「レインボーの曲のレコードをかけろ」と言ったんだ。  面白いことに、ボーナムは曲名を間違えていた。 彼は酔っぱらっていて”The Silver Mountain Man”を演奏しろと言った。  それで彼はバッハのレコードを止め、リチャード・ブラックモアに「Man of the Silver Mountain」を繰り返し演奏させた。  それからボーナムはキッチンへ行き、台所の流し台で叩いた。  リッチーはそれを快く思っていなかったようだ。

 

こんな感じで、二人の間には緊張感があるんだ。 二人は酒を飲んでいるときはいつもお互いを巻き込んでいた。  そして、リッチーはこう回想している。  「俺たちがバーで飲んでいる時、彼は本当に酔っ払っているか、本当に落ち込んでいるか、テーブルを見つめていたりした。 俺に言ったんだ、『そこに立って “Smoke on the Water “をやるのは本当に大変だろうってね』」。  するとリッチーは、「ああ、”whole lot of love “をやるのは本当に大変だろうな、少なくとも俺たちは誰の真似もしないぞ」と答えた。  ボンゾは、「何を言ってるんだ? そんなのでたらめだ。」 リッチーは、「あいつがどこからパクってきたのか、俺はよく知っている」と言った。  「”Hey Joe”から持ってきて、それをリズムに乗せただけだろう」、と。 そして、彼は「移民の歌」を「Little Miss Lover」のパクりだと考えていた。  ジョンは、「何を言っているんだ?」  彼は楽しくなさそうだったけど、それを始めた。 とにかく、その後、彼らはトイレに行き、ボーナムがリッチーに「それ、本気で言ってるのか?」 と聞くと、リッチーは「いや、その場でつっこんでみ たかっただけだよ」と答えた。  ジョンは、「わかった、俺もそんなつもりじゃなかったんだ。まだまだ上がある」と言った。  それで、彼らは用事を済ませると、下に降りて飲み続けた。 

「でも彼はそういうのが好きだった」、とリッチーは言う。彼は対立が好きなタイプで、俺はいつも彼にそれを与えていた。  でも、彼が「ディープ・パープルのように、俺たちは人から断片を奪っているんだ」と言っていたのをいつも思い出すよ。  だから、彼がどこからネタを仕入れてきたかを教えてあげたんだ。 彼の頭の中がどうなっているのか、興味深かった。 ジミー・ペイジのことを指して、ジミー・ペイジがどうやってリフを盗んでいたかをね。

グレン・ヒューズはジョン・ボーナムズとも仲が良かったんだ。  1973年、ジョン・ポール・ジョーンズが飽きてレッド・ツェッペリンから離れようとしたとき、ジョン・ボーナムは仲間のグレン・ヒューズを考慮したんだ。  ジョン・ボーナムは、ジョン・ポール・ジョーンズの後任として、トラペーズの仲間であるグレン・ヒューズをベースに考えていたんだ。 しかし結局、ジョン・ポール・ジョーンズは考えを改め、ジョン・ボーナムはヒューズを相棒のリッチー・ブラックモアに推薦する。  そして、グレン・ヒューズはジョン・ボーナムとの友情についてこうコメントしている。 「ジョンは大切な友人であり、家族のような存在だった。 俺は彼のことをボンゾとは呼ばなかった。 彼は私にとってのジョンだった。 トラペーズにいた頃からの友人だった。  彼は史上最高のロックドラマーであり、世界中のドラマーは皆、彼の作品をとても尊敬している。 私たちは多くの時間を共に過ごした。 ジョン・ジャンは私のバンド「トラペーズ」と20回ほど共演した。 爆発的で、ラウドで、愛にあふれたものだった。  ジョンはトラペーズをレッド・ツェッペリンのレーベル、スワンソンと契約し、我々をプロデュースしたかったようだ。 しかし、私はトラペーズを脱退し、ディープ・パープルに加入した。  彼の記憶は生き続けている。 ジョン・ヘンリー・ボーナムのような人はもう二度と現れないだろう。 」

ジョン・ボーナムとグレン・ヒューズのバックステージでの写真があるけど、これは1976年2月にニューヨークで行われたトミー・ボーリンのギターによるディープ・パープルのライブをジョン・ボーナムが観に来たときのものだ。  その後、ボーナムはブラックモアに「ああ、トミー・ボーリンはお前よりいいギタリストだ」とよく言っていた。 しかし、「トミー・ボーリンはクソの役にも立たない」と言ったこともある。 

しかし、実はジョン・ボーナムはグレン・ヒューズを殴ったこともある。  ジョン・ボーナムはグレン・ヒューズが妻のパットと浮気しているのではないかと疑っていたのだが、彼はツアーで留守だった。  このことでボンゾは大激怒し、グレン・ヒューズを殺してやりたいと言ったと聞いている。 グレンは親友のトミー・ボーリンの恋人カレンと不倫していたことを考えると、これはとてもあり得る話だと思う。 

結局のところ、ボンゾはツアー中、独身ではなかった。  ジョニー・ボーイが畑を耕している間にパットが浮気をしていた、それで帳消しということだろう。  でもって、ボンゾはグレンが妻のパットと浮気しているんじゃないかと疑っていた。  そして、1976年にバーミンガムで行われた『Remains The Same』のプレミアでグレンを見かけたとき、何の前触れもなく彼を殴ってしまった。  しかし、グレン本人はそんなことはしていないと否定している。 彼はボーナムを敬愛しており、このすべてがボーナムを見た最後であり、彼の誤解を解くことができなかったので、彼の心を傷つけたという。 

ブラックモアは、ボーナムがよく泣いていたのは、妻と子供と離れたくなかったからだと記憶している。  彼はアメリカ・ツアーに行きたくなかったんだ。  そこでレッド・ツェッペリンのマネージャー、ピーター・グラントは、彼に新しいランボルギーニを見せて、「これはすべて君のものだ。 アメリカに行くだけでいいんだ」と言った。  それでジョン・ボーナムは、「ああ、わかった、行くよ」と言ったんだ。  なぜなら、ボンゾが欲しかったのは、新しいランボルギーニだったからだ。 

1975年、レッド・ツェッペリンの『フィジカル・グラフィティ』と『カシミール』という曲を聴いたリッチー・ブラックモアは、本当にインスピレーションを受けた。  Kashmirは、ロックとエスニックと神秘が美しく混ざり合った、70年代ではとてもユニークな曲だった。  それにジミー・ペイジの催眠術のようなリフもあった。  Kashmirはプログレッシブで、ハードロックで、ヘビーメタルだったんだ。  だからRichieはそれに乗ろうと決めて、Ronnie James Dioと一緒にStargazerという曲を書いたんだ。 レッド・ツェッペリンと同じように、リッチー・ブラックモアはオーケストラを用いてレコーディングした。 RichieはStargazerをチェロで書いたと主張している。  歌詞と曲の一部はRonnie James Dioが書いたものである。  この曲は完成までに8ヶ月を要したが、Richieは、彼を前進させたのはLed ZeppelinのKashmirだったと語っている。 彼は言う、「私はこの曲がとても好きだった。  オーケストラのやり方が好きだった……人々が受け入れてくれる大きな一歩だったんだ。 と、1976年11月6日付のニュー・ミュージカル・エクスプレス誌上で明かしている。  ちなみに、レッド・ツェッペリンの『カシミール』に影響を受けたディープ・パープルのもうひとつの名曲は、1984年に発表した『パーフェクト・ストレンジャーズ』だそうだ。 

ところで、ここでまた面白い話があるんだ。  フィル・ライノットはかつてレインボー・バー&グリルでリッチー・ブラックモアに会った。おそらく6月3日か4日に、レインボーは6日にロサンゼルスから約900マイル離れたアイダホのノースウェスト・スピードウェイ・コーデリンで演奏することになっていたからだ。  しかし、この公演はキャンセルされた。 レインボーはアルバム「Rainbow Rising」のプロモーションのため、アメリカ・ツアー中であった。  フィル・ライノットはシン・リジーとして6月2日にSanta Monica Civicでライブを行ったばかりであったため、そこにいた。  フィルのバンドはリッチー・ブラックモアのレインボーのサポート・バンドになる予定だった。  そこにはジョン・ボーナム、ジミーペイジ、ロバート・プラント、そしてツアー・マネージャーのリチャード・コールがいた。 ジョン・ポール・ジョーンズは、10月に映画「ソング・リメインズ・ザ・セイム」、9月にアルバムのプロモーションのためにロサンゼルスに行き、翌年のツアー日程やその他の仕事を手配していたため、行かなかった。  ボンゾもブラックモアも油ギトギトで酔っ払っていたから、フィル・ライノットもそうだった。 その時フィルは、俺のバンドはツアー中に完膚なきまで叩きのめすぜ(knock seven Shades of Rainbow)、と言ったんだ。 それを聞いたボンゾはただ笑っていた。  でも、それから少しして、フィルは黄熱病の肝炎にかかり、イギリスに帰らざるを得なくなったんだ。 それでリジーは演奏することがなかった。