白井仁人 / 量子力学の諸解釈:パラドクスをいかにして解消するか

この本を読んで分かったのは、自分はいわゆる経験主義的な解釈、あるいはコペンハーゲン解釈にどっぷり浸っている考え方だということ。 あるいは道具主義者なのかも知れない。

著者は「実在」ということに強いこだわりを持っているのもよく分かる。

とてつもなく雑な説明をすれば、基本的に経験主義的な解釈では「パラドクス」的なものについてあまり悩まない立場である。 自分のような考え方だと、実在主義的な考え方そのものをよく知らない。 この本は、実在主義的な解釈のアプローチに関する解説がコンパクトにまとめてあるのは、自分にとってもありがたい。

ド・ブロイやボームの解釈に関する考え方は、この本を読むまではよく知らない内容だった。 大学の授業などではこの手の話はあまり説明されないだろうなとも思う。

経験主義の立場は、敢えて言うと、人間の認識や理解には限界があることを前提としている。 だから「粒子的」「波動的」な描像の両方で記述されることは、人間の経験的に認知できる限界だと捉えて、パラドクスという表現はしない。

こういう考え方に反発するのが実在主義的な解釈を好む立場で、測定しなくても「実在」するものは何かしら物理量を持っているはずだと考える。

この本を読んでも、自分の考え方はほとんど影響を受けなかったが、解釈の研究はもっと重視されても良いという感想は持った。

量子力学の解釈が興味深いのは、人間の認識や概念の哲学的な側面に関わる問題とつながってくると思われる点だ。 自分は、そもそも「実在」という概念そのものが、かなり困難をかかえていると考えている。

自分の場合、経験主義と実在主義は、初期仏教と大乗仏教のような対比を思い起こす。

初期仏教では、「何かがある」という考え方は正しいものの見方ではないという。

「何かを見た」というのは、目という器官を通して情報が生命に入り、生命がその情報から「何か」という認識をする。 この一連のプロセスで、生命は「何かを見た」ことを「何かがある」と錯覚しているというのが初期仏教での考え方だ。 そういう考え方から自我や「わたし」などは存在しない(錯覚)、という教えになっている。

自分としては、この考え方が量子力学での経験主義の態度に通じるものを感じる。

一方で、大乗仏教では一部の宗派の概念で阿頼耶識というものがある(大乗仏教での共通の概念ではない)。

これは無意識の識(認識)のことを指す。 意識できない領域の認識を考えているという点で、自分は正直よく分からないなと思う。

量子力学的な実在の議論が、この阿頼耶識の考え方に通じるように思えた。

著者には悪いが、実在主義は、論理という観点では、自分にはかなり情緒的なものを感じる。 というのも、「見ていなくても月はそこにあるはずだ」という感覚的・直感的なことに忠実であろうとする立場に思われるからだ。 「解釈」なので、もちろん人それぞれの解釈があって良い。

ライトノベルやSF的なネタの提供という側面では、実在主義的な議論は世の中ではかなりメジャーな量子力学のイメージを形成していると思う。 それが良いか悪いかと言うと、正直微妙だ。 実際に量子力学の理論を利用する場合は、あまり本書で取り上げるような解釈のことを考えることが少ないせいだろうか。