Enemies vs. Adversaries

enemyとadversayについてマイケル・イグナティエフの論説の抄訳です。

英語の単語の意味というより、政治の世界での意味についての文章です。 一部意訳になっています。

民主主義が機能するには、政治家は enemy と adversary の違いに注意を払う必要がある。

adversary はあなたが負かしたい相手である。 enemy は破壊するべき相手である。 adversary に関しては歩み寄りは賞賛 される。今日の adversary は明日の味方になり得る。一方、 enemy に関しては歩み寄りは妥協である。

adversary 同士の間では信用は可能である。できるのであれば彼らはあなたを負かすが、彼らはフェアな戦いの結果も受け入れるだろう。 このことと、ルールにしたがって戦うことが、信頼できる民主政治の要求である。

enemy 同士の間では信用は不可能である。彼らはルールにしたがって戦うことはない(もしルールにしたがうのであれば、それは終わらせる手段としてである)。そしてもしも彼らが勝ったなら、彼らはルールを書き換えて、自分たちが再び攻められることが無いようにしてしまう。

adversary は簡単に enemy になることができる。 もしも多数派の政党が少数派の政党に望みの半分も聞き入れないなら、多数派を完全に破壊することでしか勝利しえないと敗者は必ず結論づけてしまう。

adversary 同士が民主主義はゼロサムゲームであると捉えるなら、次の段階では政治を戦争とみなしてしまう: 助命はしない、捕虜はとらない、慈悲はかけない。

今まで長い間、アメリカ政治界の両サイドで使われてきた言葉は好戦的なメタファーによって燃やされ続けてきた。 選ばれた公職者は相手を「引き裂き」、相手に「戦いを仕掛け」、塹壕のようなものに篭っている(現在あきらかに分かる ように、連邦政府は機能停止して3週間目に入った)。 そこでは言葉が先で、振る舞いが後に続く。

大事なのは政治は戦争ではなく、別の信頼できるものということだ。 政治を戦争ととらえたなら、民主的な説得を戦いがかき消してしまう。 好戦的な態度、独善的な考えによって徐々に協力が不可能になっていく。

ワシントンの機能停止の行き詰まり、連邦債務のデフォルトの懸念のあるなか、 adversary の政治が enemy の政治に取って代わる時に何が起きるかを目の当たりにして、これには疑う余地はほとんどない。

機能不全になってもがいている民主主義に生きている人なら誰でも、敵意の政治は大統領令や政治的なバイオレンスによって終えることを知っている。アメリカ人はそういった筋書きがあり得ないと考えている。 債務の上限超えの行き詰まりが決着したとしても、厳しい取り立てがあるだろう。 過激論者は次は人質を取るのが上手くいくと考えるようになるだろう。 ゆすりが標準的な慣習となれば、民主主義は慢性的な麻痺の段階に近づく。

専門家の中には、敵意のある考え方は一般的に社会に本当の分裂を単純に反映していると考える者もいる。 収入、富、機会の不平等が増大し、普通のアメリカ人がお互いを adversary として尊敬しあうのを難しくしている、というのである。

もっと思慮深い観察者は(私も頷けることだが)、政治的なスペクトルの両サイドは互いを敵視してはいるが、ほとんどのアメリカ人は政治が見せているほどには実際に分裂していないと考える。 この場合、本当の問題は政治のシステムである: 選挙区は現職が自分の選挙区を越えた挑戦に直面しない; 予備選挙のシステムは穏健な現実主義者より過激論者に有利になる; 選挙戦の財政規則は富裕層の利害による多額で不透明な寄付を許している。

こうした見地から、政治家は彼らが政治がかトップダウン的に悪化させているほど、アメリカ社会の分裂を反映していないだろう。

政策の違いを増大させ信念の違いにしてしまう傾向がある。 例えば、共和党・民主党の支持者は社会保障や医療保険のような政府プログラムに似たように依存しているのに対して、 Tea Party の共和党支持者はオバマケアを自由への攻撃と述べていることは知らないだろう。

政治家は扱いやすいポリシーの違いをアイデンティティと価値観の衝突に徐々に変えてしまう。 こうしてFreudが呼ぶところの「小さい違いのナルシズム」が政党の活動家を自説の閉じた世界に駆り立てる。一方で残りのアメリカ人は「システム」が自分たちの役に立たないと感じたままである。 彼らは互いに交わることをやめ、政治家をさびれた公共広場で口論させておく。

違いを増幅することに加えて、敵視の政治は競争を本能的に個人的なものに変えてしまう。 相手が言ったことに反論するのが目的ではなく、聞かせる権利がまったくないと否定することが目的になっている。 精神的に不安定な脅威であるとBarry M. Goldwaterを評した Lyndon B. Johnsonから、アメリカ政治の特徴となった反対の起立はJohn F. Kerryの”swift boating”(※訳注: 不当な中傷) の攻撃となった。 個人を破壊する政治は普通に見えるようになり、受け入れられるようにさえなっている。

礼儀正しさや作法 — 感じを良くすること — は役に立たない。 変える必要があるのは慣習そのものだ。ワシントンの政治家層が自覚して初めて変わるだろう。 試合をダメにしてしまう小突き合いがあるアメリカン・フットボールのように。

ゲームを救うのはルールを変えることを意味する。 ごく最近までアメリカ人は自分たちの民主主義はとても例外的で、他の国から学ぶことは何もないと信じていた。 しかし今では真の機能不全がアメリカ人に他の国の民主政治がどのように行き詰まりを回避しているかをより注意深くみるように仕向けている。 イギリス、フランス、ドイツ、カナダやオーストラリアも、公平な選挙区委員会が不正な区割り変更を防ぎ、また現職者が自選挙区だけでなく手を差し伸べさせるように強いている。 彼らは選挙運動資金の法律を持っていて、金持ちの偏屈者が狂信的な支援をするのを防いでいる。 彼らは政治家が立法府で手続きの派手な乱用を防ぐ法律を持っている。 彼らは狂信者による当選を防ぐために開放予備選挙を行っている。 もしアメリカ人が他国の民主政治から何も学ぶことがないと今でも感じているならば、州や地方レベルの再建から学ぶことができる。

弁護の余地が無いのは、「それ以上を望むことが出来ない状態」が可能だと信じている政治家層だ。 彼らは敵意から利益を得ていて、それから受けるダメージが自らを蝕み、そして取り返しがつかないことになることを分かっていない。

マイケル・イグナティエフはカナダ自由党の前の党首で、作家。最近の著作は“Fire and Ashes: Success and Failure in Politics”。

INTERNATIONAL NEW YORK TIMES

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